失ったものにしがみつかず
こんにちは。呟き尾形です。
失ったものにしがみつかず
与えられたものに感謝して
そこからスタートするのです。
進んでゆくうちに失ったことにも与えられたことにも
きちんと意味があったことに気づく日が来るでしょう。
─ 片柳 弘史 ─
人生には、失うことも与えられることもあります。
人は何かを失うと、心はそこにとらわれがちになります。
それは、過去に執着していることになります。
執着すると、今、自分に与えられているものに感謝することが難しいものです。
しかし、人生には、失うことにも、与えられた恵みにも、それぞれの意味があるものなのです。
ですから、失ったものにしがみつかず、感謝と共に一歩を踏みだすべきなのです。
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★★★因果応報
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●4月5日は、小笠原返還記念日です
●小笠原返還記念日
1968年(昭和43年)4月5日、当時、小笠原諸島の立法、行政、司法権を握っていたアメリカとの間で小笠原返還協定が締結されたことに由来します。
小笠原返還協定が締結により、同年6月26日に日本に返還されました。
この返還は、佐藤栄作氏が首相に就任するとアメリカとの友好関係を強める施策を進める一環として進められました。
実際、日本国内に小笠原・沖縄の返還について世論も強まっていました。
そこで、首相は、日本に返還されても、アメリカが軍事的に利用するのは構わないから、返してくれた方がアメリカにとっても良いのではないかと巧みにアメリカを説得したそうです。
その後、1967年のジョンソン・佐藤会談でその方向がほぼ合意に達し、まず1968年に小笠原、そして佐藤の任期終了直前の1972年に沖縄の返還にこぎつけることができました。
小笠原には古くから太平洋の様々な人が訪れていた可能性がありますが、歴史的な記録に残っている最古は1543年にスペイン船サン=ホワン号が目撃したというものがあります。
その後文禄2年(1593)に信州出身の探検家・小笠原貞頼がここを探訪し、上陸して島の物産を持ち帰り、徳川家康に献上しています。小笠原諸島という名前はこの小笠原貞頼にちなんで付けられたものだそうです。
その後、延宝3年(1675)に、幕府が調査隊を派遣し測量をおこなって地図を作製しましたが、この時に父島・母島などの名前が付けられたとされています。
しかしその後幕府はこの島々の運営を積極的には進めようとせず、その間にこの地区には欧米の船が次々に来航。1830年には5名の様々な国籍の西洋人を含むハワイ系の人々が来訪して入植を始めました。
この人たちが小笠原の最も古い定住者ということになります。
1853年に日本に来訪して開国を要求したペリーは小笠原についても調査しましたが、占領について大統領の許可が下りず、調査だけして帰国しています。
このペリーの調査が日本に伝わると、幕府は慌てて文久元年(1861)12月、水野忠徳を責任者とする開拓隊を派遣し、住民達に古い地図を示してここは元々日本領であったと宣言したそうです。
この日本の強引ともいえる領有宣言は、他の国が領有について消極的であったこともあり、国際的に承認され、小笠原諸島が日本の国土として扱われるようになりました。
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★★★ 小笠原返還記念日1
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名言を通して、問い、自分自身見直す。それが私にとっての哲学の訓練です。
で、偉人の言葉だから名言なのか、名言を言うから偉人なのかは無関係です。
ですが、私のような凡人が名言を言ってもそれは、名言であることはかわりません。
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