イスラム教
こんにちわ。呟き尾形です。
イスラム教という宗教があります。
どちらかというと、日本になじみの薄い宗教で、なんというか、誤解をしているのではないだろうかと思い、イスラム教についていろいろ調べてみました。
私は、イスラム教徒ではありません。しかし、世界でたくさんの人に信仰されるということは、それだけ信頼に値する宗教であると考えます。それは、いったいどのようなものか。できるだけ、先入観なしに調べてみました。
もちろん、その詳細というよりは、一般的に誤解されているであろうことと、調べてみた内容を比較してみて、できるだけ、誤解をなくそうとするのがこの記事の目的です。
ただ、イスラム教徒ならざる私が、少しばかり調べて感じるたことを書いている記事です。
その点、ご了承ください。
また、間違いなどありましたら、ご指摘ください。認識を改めるよう善処いたします。
さて、なぜなら、私たち人間は、自分の知っていることについては、対象を正しく認識することは、可能ですが、知らないことについては、自分勝手に想像し、下手をすると、想像が妄想になり、対象を誤解し、まったく異なるものとして認識してしまう可能性があるからです。
ところで、日本人の多くは、とくにこれといった宗教と信仰しているということは、さして重要ではありません。
ただ、何かを信仰しているということが、その宗教がどんな宗教であり、どんなことを主張しているかも知らずにうさんくさいと判断することがありますが、それは、日本の中の話で、むしろ、イスラム圏をはじめとした世界的な常識としては、なにを信仰するかは別として、信仰を持たないと、なかなか信頼されないそうです。
実際、調べてみるとわかりますが、宗教の多くは、その宗教観において、道徳を説いています。
ここからは、私の推測です。
宗教を信仰していないということは、「私は道徳を持っていません」という意味を持っているからかもしれませんし、そもそも、何かを信じることができない人が、他人を信じることはできないだろうし、他人を信じることをできない人を信頼することは、不合理であるということです。
日本において、なぜ、そのような宗教観になったかは、単純に、日本が多民族国家ではなく、同じ民族意識があり、ある種、同じ価値観を共有できていたからでしょう。
その証拠に、日本人は他民族というだけで、すぐに信頼しようとはしません。
イスラムとは、アラビア語の”平和、従順、服従”を意味する”サラーム”から派生しているといわれています。
つまり、『神に帰依する』ということです。
で、ちょっとしらべただけでも、イスラム教は、ものすごく合理的な宗教でもあり、誰が救われ、誰が救われないかが明確な宗教でもあります。その明確すぎる合理性が日本に浸透しない理由なのかもしません。
テロ行為は、その明確な合理性において、反する相手が生じたときに行われる行為でもあります。
イスラム教徒は、命がけで信仰しているということです。
それは、イスラム教徒の義務である五行というものをしると、その覚悟がつたわってきます。
イスラム教徒の義務である五行とは、信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼というものをしているということです。
信仰告白とは、1日に5回、アッラーに信仰告白の文面を唱えることです。
礼拝は、メッカの方向に向かって1日に5回礼拝することです。
喜捨は、貧しい人を救う行為をすることです。
断食は、禁欲の月と呼ばれる機関に、その名のとおり断食をします。
巡礼は、メッカのカアバ神殿を訪れることです。
このような責務を、信仰の名の元に行われているといわれています。
半端な気持ちではできません。
さて、イスラム教の信仰の対象は、下記のとおりです。
アッラー(神、絶対的な存在です)
天使(神と人間の中間的存在、悪魔も含むらしい)
啓典(聖書やお経みたいなもの。厳密には違いますけど)
予言者(神の言葉を信者に伝える存在)
来世(死後の世界のようなもので、終末後、天国と地獄に分かれるらしい)
予定(神が決めた宿命)
です。
また、偶像崇拝を禁止し、他の宗教を否定する部分があります。
ただ、私見を言いますと、盲信者を戒める決まりのように感じ、正しいことは一つなのだから、正しいもの以外は間違いである。
という、イスラム教的、合理的な考えだと思います。
原理主義と呼ばれる考え方も目には目を的な明快なものがあります。
ただ、私見を言いますと、どんな理由があろうとも、相手を傷つけることは悪いことであり、相手を傷つけてしまったときは、復讐を受ける覚悟と享受をしなさいという戒めのように思っています。
さて、イスラム教といえば、聖戦、ジハードを連想する人も多いかと思います。
それによって、イスラム教の神、アッラーのために戦う、誤解する人がいますが、戦うのは神のためというわけではなさそうです。
厳密に言うと、信者は神から運命を与えられていてそれは自分の力では変えられず、自らの力で変える、変えられたと思っても、それも、すでに神が定めた運命であるということとして考えます。
そして、戦争も、その人に与えられた運命であるということになります。
また、イスラム教信者なったときに、ジハードの義務を了承しています。
そして、その、ジハードとなったのは、誰のせいでもなく、自分のせいでもない。
アッラーだけが知っているということになります。
もちろん、ジハードによって、死ぬかもしれませんが、その時は天国を保証します。
さらにいえば、死にたくない。逃げることも不可能ではありません。
それも、アッラーは知っているからです。
このように書くと、運命というものを使い、責任を神に押し付けているのだ。
という考えも可能かもしれませんが、私はそうとは思いません。
すでに上述しましたが、イスラム教徒の義務である五行をしています。
半端な気持ちでは信仰していないということだと推測しています。
とりあえず、上記が、イスラム教徒でない、私が、調べ感じた内容です。
ヾ(@^▽^@)ノ (☆o☆)キラキラ 。(*^ε^*)oにんまりぃ♪
白い時計塔のある村
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