哲学って必要? 前編
こんにちわ。呟き尾形です。 呟き尾形の哲学手記を掲載します。
※ この記事は、呟き尾形のサイト、白い時計塔にある村に掲載されている記事です。
白い時計塔のある村
哲学って必要? 前編
哲学って必要なんだろうか?
んー、やっぱり必要。なんでか?
つーことで、私、呟き尾形の考えをば。
個人的に、哲学というのは、「要するに」を求めておきながら、それをご法度にしているように思えるんだよね。
なんつーか、螺旋階段を上るように、同じような問いを繰り返し、同じような回答に行き着く。
回答だけ聞けば、同じジャン。といわれちゃうと困る。
だ・け・ど、空が青いことを知っているのと、空が青い理由をしって、空が青いことを知っているときの、知の強度の違いは桁違いなんじゃないかと考えて、その上に、空が青いという意味を考えた上で知っているとさらに知の強度
は強くなるとおもうんだよなぁ。
こうした、「知の強度」が強ければ、強いほど、「困難」を乗り越えられるわけで、それが哲学。って感じもする。
ムチャクチャかな? まぁ、ムチャクチャだって、そう感じちゃえるのだからしかたがない。
でも、知の強度なんていっても、辞書に載っているような単語じゃない。
んー、勢いでいってしまったけれど、知の強度というのは、自答自問を含めた問いに応えきる知の強さなのかな。
まぁ、目の前に3歳児に「どうして?」攻撃を受けて、どれだけ口ごもらないですむか、あるいは、どれだけ自己完結しない回答が出せるかという「知」の強さのこと。
で、「困難」というのは、まぁ、端的に言えば、既存の持っていた価値観の崩壊した状況。
まぁ、個人差はあるんだろうけど、思春期のころの悩み事。片思いを含めた恋。確実に迫る老いによる死ってところかな、あーこりゃこりゃ。
まぁ、他人から観て重要かいなかではなく、他人が見てくだらなくても、その人が本気で思い悩んで、”くだる”(くだらなくない)こと。
なんにしても、哲学というのは、知の強度の強化で、強化しなくちゃいけないのは困難に立ち向かわないといけないことになる。
でも、別段回避できる困難なら回避したいというのがホンネだよね。
だ・け・ど。回避できない。回避できたように思えるのは、単純に困難を先送りして、困難をもっと大きな困難にするだけ。
後編へ続く・・・。
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